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2009年2月8日 - 2009年2月14日

2009/02/12

社会保障を巡る風向きは確実に変わっている

 さまざまな運動があったとはいえ、ここまで動いたのは今の政局があったからこそであろう。政治とは、与党であり続けるための努力そのものなのだなあ、と思う。厚労省としては「無念」ってところなのだろうか。いつか自民党が安定した与党として返り咲いたとしても、もう一度応益に戻すのは難しいだろうと思うし。もはや介護保険との統合も絶望的ということか。

応能負担~lessorの日記~より


 引用させていただいたブログは、「障害者自立支援法の見直しを検討している与党は10日、障害者が介護など福祉サービスを利用する際の負担を軽減するため、原則「1割の自己負担」から、所得などに応じた「応能負担」へ改める方針を固めた。」という記事について書かれているもの。

 このブログにおける「さまざまな運動があったとはいえ、ここまで動いたのは今の政局があったからこそであろう。」というコメントは、まさに的をついていると思う。
 このような認識は、例えば、学習院大学の鈴木教授の「生活保護制度抜本改革のかすかななる兆し」にも通底するもので、社会保障の見直し機運は徐々に広まってきている 。
 政権交代への危機感と、景気崩壊への危機感とが共存するという、皮肉な意味での「好機」が、日本の政策決定における力学を大きく修正する作用を及ぼしている。

 また、この「厚労省にとっては『無念』というところなのだろうか」についても、大きく見直し機運が作用してきていると思う。つまり、社会保障における「社会保険帝国主義」=応益ルールの無原則な拡張にストップが掛かりつつあるのだ。ゲスの勘ぐりで言えば、厚労省が、応益ルール=社会保険帝国主義になるのは、財務省にとやかく言われない特別会計という天領を維持したいという本能のなせる「技」なのではないかと思う。天領化自体を悪だとは思わないが、そのためには、天領で行われる個々の行政処分について、きちんと責任追及をする仕組みが必要だ(この点については、前のエントリを参照)。
 私自身は、社会保障の仕組みとしての「社会保険」については、あまり意義を感じていない。特に、実体経済にそくした(つまり、リアルタームでみた)マクロの経済効果という意味では、社会保険料と税は、本質的に同じで、社会保険を金科玉条にすることは理解に苦しむ。
 
 いずれにせよ、この「政権交代への危機感」と「景気崩壊への危機感」が共存して、「異例の措置」が異例でなくなっている現状は、政策の転換という視点では、結構ハッピーな状況なのかもしれない。

行政処分決定に関与したものの責任を問う仕組み

『変革の時代における理論刑法学』

 第10章 薬害エイズ帝京大学病院事件第一審無罪判決をめぐって P172~p173

 本判決が問題としたのは、あくまでも昭和60年時点の本件被害者の治療について過失があったかどうかであった。マスコミ報道やジャーナリストによる事件解説などでは大きく取り上げられ、また、検察官の主張に含まれていた論点として、被告人が厚生行政を左右する立場にあり、国内における血友病治療の方法を決めるにあたり大きな影響を持っていたところ、非加熱製剤の使用を抑えクリオ製剤への転換を奨励する方向への厚生省の方針変更を阻害したではないかという問題がある。しかし、この点につき、本判決は「本件公訴事実との関係が明らかでないというほかない」とした。
~中略~
 この点は証拠評価に関わることであり論評の限りではないが、多数者が関与する厚生行政の方向性に対し、被告人がどれだけの影響力を行使したのか、また、被告人の作為・不作為と具体的な発生結果との間の因果関係があるか、またそこに過失を肯定できるかを具体的に明らかにすることがきわめて困難であることは容易に想像できるところである。本判決の争点が、帝京大学病院における治療方針に決定・指示をめぐる過失の存否とならざるを得なかったことは、事案の性質上やむを得なかったと思われる。


 この事件は、既に世上では忘却の彼方に置かれている事件だろう。
 しかし、審議会の委員を含む公務員(審議会委員は、非常勤の公務員である)が、行政処分の決定をした場合に、国民に損害を与えた場合の事後的責任のとらせ方というのは、今でもアクチュアルな問題だ。
 例えば、生活保護給付の詐取事件について、その詐取された2億円について、首長が、市役所の職員の給与を削減して補填させる方針であることが、報道されている
 この首長の決定の可否はともかくとして、具体的な行政処分を行った広義の公務員について、その責任を追及する仕組みは、まっとうな行政を確保する上で、土台であるといえよう。しかし、その法的土台が整備されているとは言えない。地方自治については、住民代表訴訟という仕組みがあるのでまだしも、国の行政、さらに、その行政処分決定に関し、薬事行政のように、審議会が関与する場合の狭義の公務員、審議会委員などの非常勤公務員に対する責任追及の仕組みが整備されていない。
 
 この判決や井田教授が、この被告人の厚生行政への関与を刑法的評価の対象から外さざるを得なかったのは仕方がない。そもそも、このよう行政処分決定に関与した者に対する、その行政処分によって生じた(社会的)損害に関する応報的責任の追及の仕方及びこのような事態が再現されないようにするための一般予防・特別予防のための責任追及の方法として、刑事的方法が適さないのだから。
 井田教授の論文に出てくる「因果関係」や「過失」という言葉は、刑法(解釈)学において、非常に緻密な議論がなされている重要概念であり、それが、国家の刑罰権発動の正当化根拠を与え、かつ、被告人の人権を守るために機能しているもの。その壁を乗り越えてこそ、懲役などの刑事罰という最高度の人権侵害が許容される。
 おそらく、生活保護詐取事件についても、市役所の職員に、詐欺罪の共犯(幇助犯)の成立を認めることは相当難しいであろう。
 
 しかし、このような刑法的評価に釈然としないものが残るのも間違いない。繰り返すが、このような行政処分決定に参画する者の責任追求の方法として、刑法、少なくとも現行の刑法典が予定する犯罪類型を適用することは、適当ではない。とすれば、このような行政処分決定に参画した者に対し、応報的というよりも、一般予防的、特別予防的な効果を及ぼすためのサンクションを別に講じることが求められるということだ。

 政策決定を行った政治家(議会議員及び公選制下の首長)は、政治的に責任を追及される仕組み、つまり選挙で落選させることで、不当な政策決定に対する責任を負わされるkとが原則となっている。
 一方、試験任用の一般職の公務員及び審議会委員のような非常勤公務員ついては、実際には、殆ど行政処分決定に対する責任追及の方法が存在しない。確かに、人事任用及び懲戒処分で対応することになるが、これは、収賄のような刑事犯であったり、職務のサボタージュや政治活動など、公務員一般の職業倫理に反する行為についての分限処分であり、まさに今従事している具体的な行政行為についての結果責任を問うものではない。
 ここに無責任行政の病根があるだと思う。

 このためには、特別刑法を作って対処するというよりも、行政的手法、民事的手法で責任追及する方が望ましいだろう。
 そのためには、
 ・公務員の分限処分の処分事由に関し、(過失ではなく)「努力不足・誤認・意図」により、具体的な行政処分決定によって、損害を市民に与えた場合を追加(いきなり罷免が問題であれば、降格など)。かつ、この場合の「具体的な損害」の認定要件をあらかじめ明確化することを、特に許認可事務や法定給付事務については義務化する。
・非常勤公務員についての分限制度の新設。例えば、爾後、非常勤公務員への就任禁止、あるいは各種の「師」業法や免許・許可制下におかれる関連事業における資格停止。
 
 さらに、民事的には、やはり国家賠償に関して、
 ・原告によって、国等の行政処分主体だけではなくて、行政処分に関与した公務員全体を被告とできるように、被告適格の拡大
 ・国家賠償が確定した場合の国による、個人責任求償の義務化(裁量性を与えてはいけない)

 行政処分は、どうしても集合的な意思決定となり、かつ直接の「実行行為」を行う法的主体が、国や自治体になってしまうことから、自然人が実行行為を単独で行うことを基本とする刑事法的な仕組みによるサンクションは適合的でない面が否定できない。この当たりを一般的に拡張してしまうと、市民の自由に及ぼす悪影響が大きすぎる(例えば、いわゆるコンスピラシーの議論など)。
 とすれば、公務員に特有の法的サンクションの仕組みを刑法ではない仕組みで作るべきなのであろう。社会をより良くするための道具は選ばなければならない。


追記

 ちなみに、同じ論文の「結びにかえて」で、井田教授は、次のように述べている。

 それにしても、本件ほど、刑事裁判の機能について考えさせられる事件は少ないであろう。これほどに社会的関心を集める事件について、他に適切な真相究明の場が存在しないのであれば、その機能が刑事手続に期待されることは当然である。その意味において、本件にように、多数の人の作為・不作為が複合的に関与し、構造的原因を濃厚に持つ薬害事件において、特定個人を切り離してその刑事事件を明らかにするという刑事責任追及の困難性にもかかわらず(「綱渡りの立証作業」ともいわれた)、本件は起訴されるべき事件であった。

~中略~

 そして、そうであるからこそ、本件のような事件については、過去に向けての刑事責任の追及がそれ自体は非生産的で不毛な側面を有することもまた痛感されるところである。被害者の救済と同種事件の再発の防止のためにいかなる建設的な対応が可能であるのか、法律家はこの点についても衆知を集める必要があるだろう。

 この警句が、うまく世上に広く普及していれば、例の事故米の問題などは起きなかったかもしれない。
 一方、マスコミに一時の論調に左右されることなく、刑事法の理屈を徹底させた、この判決は、「平成の大津事件」とでもいうべきか・・・

2009/02/09

「ただめし」というレトリックは、本当に正しいか?

 「埋蔵金」に続き,「政府紙幣」,「無利子国債」が注目されている。これらを検討する国会議員連盟も発足するようだ。きちんと政策を勉強していただくことは歓迎だが,財源の心配をせず景気対策ができる話だと思って飛びつく人が出てきては困る。  経済学で「ただ飯はない(There is no free lunch)」という言葉がある。租税・公債発行以外の財源調達方法にも,何らかの形の負担が存在する。埋蔵金は資産を取り崩すので,純債務を増やす点で国債発行と同等である。政府紙幣は,インフレで名目資産が目減りする形で国民の負担になる。無利子国債で現在の国債の利払いを節約しても,将来の相続税収入が減少する形で帳消しになる(制度設計の仕方では税収減の方が大きくなる)。無から有は生じないことを肝に銘じて,「ただ飯を食べたい議員連盟」にならないことを望む。

ただ飯を食べたい議員連盟


こういう思考法は、本当に正しいのだろうか。
政府が紙幣を増発することによる「コスト」とはなんなのだろうか?

政府紙幣の発行が、,国民どのような負担となるかという点は,インフレ(懸念)だろう。しかし、デフレスパイラルが懸念されるときに、インフレの心配をするというのは、「ふろの水と一緒に赤ん坊まで流してしまう」発想ではないか。

目下のデフレと失業=遊休労働力の激増を目前にして、貨幣増発のコスト論のような議論において,「国民」負担=将来の税負担という課題設定自体が否定されるべきではないか。貨幣などというものは,所詮同じ貨幣を利用する者間の貸し借りだから,その意味でネットでは負担など0なのです。あり得るのは,「通貨の価値」,つまり貨幣と実物財・サービスの相対価格の変動による,実質購買力の「移転」(及び取引コストの増加)。

そもそも、現在のようなデフレ・不況のコストは、当期使わなければ、何の効用、厚生を生み出さずに、「稀少な」労働が無駄に消え去ってしまうことではないのか。つまり、遊休労働力が放置されていることが問題。
貨幣増発、あるいはそれと全く同じ効果を持つ中央銀行直接引き受けによる国債発行によって、この遊休労働力を、日本市民の希求する財・サービスを生産することに活用できる、すなわち「雇用」を作り出せるのであれば、何の問題もないのではないか。

国債増発について、よく将来の市民への負担だというけれど、この議論は本質的におかしいと思う。
日本の国債の大部分が外債として、非居住者に所有されており、非居住者に償還されるというのであれば、日本の労働力の成果が非居住者に費消されるという意味でコストである。
しかし、居住者によって保有され、居住者に償還される限り、将来の償還というのは、同じ居住者集団の中で購買力が移動しているだけであり、マクロ経済としては、何の負担も生んでいないはず。
唯一あり得る問題は、税収構造が変わらない限り、所与の歳入のうち、その時点の政策課題に対応した歳出を行う余地が小さくなってしまい、財政政策の選択幅が狭くなるという点だけのはず。所詮、やりくりの問題だ。

一方、貨幣増発や、中央銀行引き受けの国債発行(中央銀行のバランス・シート上の国債保有ストックの増加及びその維持)で、当期の財政支出=雇用確保支出を賄うのであれば、将来における財政支出の硬直化は招かない。とすれば、インフレをコントロールできれば、何の問題も生じないということだ。

議論を突き詰めれば、対立点は、「目下のデフレ」と「将来のインフレ」のどちらを重大な問題かと考えるのかという、極めて単純な問題に還元することができる。

こういう本質的に単純な問題設定において、その判断の目を鈍らせるような「ただめし」というレトリックは止めるでき。「ただめし」というのは、道徳主義の臭いを感じるし、そもそも政府を擬人化しているだけで、このいう表現は、アナロジーとして適切ではないと思う。

大事なのは、効率性、つまり経済が生産フロンティア上にあるかどうかなのだから。
遊休労働力が激増しつつある状況では、生産フロンティアに向けて、パレート改善が可能という意味で、「ただめし」は可能だ!!!


追記

今の日本の需給環境で「大変なインフレ」など到底起こりそうもないことが理解できないんだろうか?それより「多少のインフレ」が起こるならそれはデフレの克服につながり大歓迎なのに。デフレを意識しながら同時にインフレは嫌だとかいった、何が言いたいのかまるでわからない人が多すぎる。また「国民を騙す」などと刺激的な言葉遣いがされてるところを見ると、どうやらそんな錬金術みたいなのは眉唾物で、歯を食いしばって努力することしか苦境を脱する方法はないのだ、みたいな感覚があるのかもしれない。

何度説明してもわからない人たち

冒頭の引用からしても、この政府紙幣=錬金術という発想は、相当根深いのかもしれない。
日本経済を生産フロンティアへとパレート改善させる政治的方策はないものだろうか。

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