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2011年4月3日 - 2011年4月9日

2011/04/06

「世代間負担格差」という妄言

 復興財源論について、相変わらず、何の積極的論証をすることなく、国債を増発することが難しいだから税という論法が広まっている。では、税な出来るのかという点については疑問なしとし得ない。特に、この震災という危機において、被災者を救いたいという素朴な正義感に「つけいる」形で、何の展望なく増税すべきと論じるのは、「お国のために我慢せよ」として、鍋釜まで金属資源とし拠出させた戦前軍部のファシズム思想以外の何者でもなく、非常に恐ろしいことだと思う。

 また、復興財源を国債調達で賄うことと、いわゆる「国債による負担先送り=世代間格差論」を結びつける議論においては、何を況やである。
 この論法の「落とし穴」を生み出しているのは、サミュエルソンの生み出した代表的家計を設定しての「世代重複モデル」による分析の適用範囲を無節操に拡大してしまった結果だ。
 じっくり考えて欲しいのであるが、現代の科学技術においてタイムマシンがある訳でもないのに、「現代の世代が将来の世代の負担で便益を享受している」という言質は、何を意味しているだろうか。
 タイムマシンがないのだから、将来世代の労働成果を現在の我々が享受できる訳はない。
 とすれば、将来世代にとっての「負担」とは何か?
 つまるとこころ、財政の支出自由度が狭まるというだけに過ぎない。
 つまり、公債の償還額の歳入に対する割合が増えると、裁量的歳出の選択の幅が小さくなるということは確かだ。しかし、これ以外の弊害は、突き詰めて考えてみると、存在しなのではないか。
 繰り返すが、この世にはタイムマシンは存在しないのだ。
 将来の労働成果を現在享受することはできないのであって、現代世代が享受できる便益は、現代世代の労働成果(及び実物資本という形で蓄積された過去世代の労働成果)であって、将来世代の労働成果でない。マクロの実物経済という視点からは、「世代格差」ってなんだということになる。

 勿論、公債の累増が待ったく問題ないと言っているのではない。
 公債とは、公債を購入できる金融的な富裕層が、税負担から資金の償還を受けるものである。この「金融的な富裕層」とは、現時点において労働力を豊富に提供した者ではなくて、過去・現在の購買力配分のルールの結果、購買力をなぜか相対的に多く保有している者にすぎない。そういう者に、現在の労働成果である法人税や所得税によって徴収された資金が配分されるというのは、逆進性を持っている蓋然性が高い(勿論、公債保有者が年金基金等零細資金を集合させたものである場合には成り立たない。また、税金が資産課税によって主として賄われている場合にも議論が異なる)。
 公債によってファイナンスされる資金の使途が、不平等感を涵養するような使い道になっている場合にも適当とは言えない。例えば、年金の場合に問題になるように、国民年金について一般会計繰り入れでファイナンスしており、結局、この繰り入れを公債でファイナンスしているが、国民年金を保障される人たちが、公的資金による助成を受けることを正当化される人々に限定されているのかという疑問がある(こういう点から、生活保護と国民年金を一本化して、負の所得税にすべきという議論が出てくる)。しかし、これは公債償還時の税負担をする世代と現在年金を享受する世代の問題ではなく、現在の公的資金の使途としての妥当性の問題であり、公債の問題ではない(仮に、国民年金の財源不足を税や埋蔵金で補っても、問題の本質が年金支給の不平等なのだから、何の問題の解決にもまらないことが理解されるだろう)。
 勿論、反論として、現在の公債発行増により、公債償還時の年金支給のために増税が必要になれば、若年世代から高齢世代への資金移転が起こり問題だという点を上げる者も出てこよう。ここで、「世代」の言葉のすり替えが起きているのだ。
 増税でまたなった資金を年金として支給するというのは、まさに典型的な所得再分配政策であり、所得分配としての正当性を議論すればよく、あくまで公債償還=増税時における年齢格差であって、公債発行時の社会が、公債償還時の社会を搾取しているのでなんでもない。
 そもそも、何度も言うが、タイムマシンが存在しないのだから、実物経済として、将来世代を搾取した、負担を押しつけたりはできないのだ(将来世代の生産性向上のために現代世代が実物資産を残すことができるが)。

 だから、公債発行については、それが所得再分配にどういう影響を及ぼすかという厚生経済学的規範的議論があり、ごく子細な問題としては、公債償還時の歳出自由度を欲する人にとっての「支配欲求」の問題はあるかもしれないが、喧伝される「世代間格差」なんてものは存在しない(それは、サミュエルソンモデルが世代間への資源移転の経済効率性を論証するレトリックとして構築した重複世代モデルの過剰な利用だ。債券を加味した世代重複モデルの使用というのは、クルーグマンが編み出したベビシッターモデルのように貨幣の効率性と限界を巧妙に説明するようなモデルに限定すべきだろう)。
 いわんや、復興財源論の議論に、世代間負担の論法を持ち出して、増税を求めるようなロジックは極めて危険なファシズムだと思う。

復興財源論という欺瞞

 少しずつ、東日本大震災の緊急対応から、被災者のより長期的なケア、そして復興対策へと議論の舵が切られつつあるように思う。
 そこで、鎌首をもたげてくるのが、「復興対策の財源論」だ。

 ここでの争点は、復興のための施策に要する財源を「増税」で賄うか、「国債の日銀引き受け」で賄うかという、財源論だ。
 しかし、ちょっと待って欲しい。
 財源論は何のために行うのかということを等閑視して、(マクロ経済学の)抽象的なロジックを用いて、財政が破綻するだの、デフレ対策に効果があるだのという議論に、何の意味があるのだろうか。

 日本国政府が、復興対策としてしなければならないこと、それは、抽象的な金額の議論ではないはずだ。
 そうではなくて、日本の国土に住む1億2000万の人口、そして実物資本(要すれば生産活動に利用できる具体的な機械設備のこと)を、如何にして効率よく、つまり気持ちよく復興という事業に投入するのかということだろう。
 そもそも、日本では、「緊急雇用対策」を論じ、自殺対策をしなければならないほどに、仕事を求めてやまない人がおり、遊休設備が滞っている。
 こういった遊休労働力や遊休設備がいつ早く復興へと向けて稼働できるようにするのが政府という公共的意志決定主体の役割であろう。
 特に、被災地域については、住むところが欲しい、道路を直して欲しいという、非常に分かりやすい「欲求」が堆積しており、かつ、そこを復旧させ平時の状態に戻すことに異論のある国民はいなかろう。
 とすれば、必要なことは、その目的で人や機械設備を投入するため、働こうという人や機械設備の保有者に、どうすれば被災地の具体的な復興需要へと動員される気になるかを聞いて見ればよいに過ぎない。というか安全に相当程度の報酬であれば、動員されるであろう。あとは、その順番付けをしていけばよいだけだ。
 そして、その安全な環境整備と報酬に必要な資金を、そういうものとして、どのよう調達することが、スピーディーでトータルコストが低いのかを考えれば良いにすぎない。

経済学的に言う費用とは、「ある目的に経済資源を投じた費用とは、その資源を他の目的に投じたときに得られた便益の最大のもの」である。すれば、復興のために遊休資源を動員できるように、仕組みを作ることのコストは0ということだ。なぜならば、その仕組みがなければ、その遊休資源は無為に何の生産活動にも使われていなかったのだから。

 どうも、直ちに打たれる23年度の補正予算は、既存の予算の範囲内で、新規の財源調達をせずにできることに限定されようであるが、仮に、本格的な復興事業事業への着手が「財源調達」論のせいで遅れるのであれば、被災者の皆さんは本当に不幸だと思う。
 ちなみに、復興事業のように「へこんだものを元に戻す」、そして遊休資源の動員のためのインセンティブ作りという事業の性格からすれば、増税などという議論がなぜでてくるのか、全く理解できない。
 財源論の前に、復興事業が復興のための経済資源の動員であるという点で、共通認識をもつ必要があると思う。

 繰り返しになるが、復興のために必要なのは、通貨ではない。あくまで、復興のために働く人であり、稼働する実体のある設備なのだ。税金でも、国債でも、貨幣増発でもない。財源論なる問の建て方自体が間違っている。重要なのは、復興のためにリアルな人、設備を動員することであり、そのために通貨が必要なのであれば、その通貨を、制約要因を加味した上で、最も効率よく調達する方法を考えればよい。くれぐれも、条件付き最大化問題における、目的関数と制約式を取り違えてはならない。

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