規制改革と産業・技術振興

2011/03/31

生産拠点の「疎開」

 それほどではないもの、メディアでは、今回の震災で自動車や電子産業のサプライチェーンが危機に瀕しているという報道がはされていはいる。さらに、この影響は北米の自動車産業やiPad2にも波及するとかしないとか。
 岩手や宮城、福島からの直接の通関統計をみると、自動車部品や電子部品の類の直接の輸出はそれほどでもないし、産業連関表などを見ても、東北地域からの中間投入への依存は関東その他の地域の機械産業において、顕著に高いとはいいにくい気もする。

 もちろん、ここの取引関係においては、代替性のない部品の生産が途絶するということもあるのだろう。そういう代替性のきかない部品については、いっそのこと生産拠点自体を暫時「疎開」させてしまったらどうなのだろう。

数日前のテレビで、被災地で製品の個性的なデザインで評価されていたとする工場の社長さんが、洪水で壊滅した工場建屋の中で奇跡的に水没しなかったパソコンをみて「これで設計データは守れた、7,8割は大丈夫だ」と話していた。今や、製造業に必要で代替のきかない生産要素とは、人と設計データ、設計思想だということなのだろう。

 であるならば、人と設計思想ごと、安全な場所に移転してしまえばよい。
 中小企業基盤整備機構のような独立行政法人や、各県の土地開発公社が、工場用地や貸し工場の空きを山のように抱えている。サプライチェーンの頂点にあるアセンブラーが、そういった空き空間を借り上げ、簡易な建屋を確保し、工作機械もばんばん整備すればよい。アセンブラーがしないのであれば、国が復興債で整備してまえばよい。
 さらに、電力が不安定な関東からも離れて、いっそ中国地方や四国、九州にいってしまうというのも一興ではなかろうか。そうすれば、関東地方や東北地方への電力の負荷も減少し、遊休地の活用もできる。

 こういう大胆なことは政治の力じゃやないとできないじゃないのかな。あるいは、どこかの県知事が、土地開発公社の土地を開放するといえばよいのに。それとも、門真や豊田ではもう始まっているのかな。

2011/03/26

3月11日という偶然の一致

3月11日といえば、東北関東大震災の日であり、福島原発クライシスの日です。しかし、この日には、もう一つ別の出来事が起きていました。11日というのは金曜日ですから、定例閣議のある日です。

 http://www.kantei.go.jp/jp/kakugi/2011/kakugi-2011031101.html

 これが、11日の閣議の案件の一覧ですが、このページの中段からの「法律案」の中に、全然目立ちませんが地味に「電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法案」というものがあります。

 この法案は、いわゆる全量買取制度といって、既に太陽光発電では措置されている(正確に言えば、制度が動き出すのは、この4月から)自然エネルギー発電の余剰電力を固定価格で電気事業者が買い取る仕組みを構築する法律です。

 概要はこちら→ http://www.meti.go.jp/press/20110311003/20110311003-1.pdf

 11日の朝に、全量買取制度のための法案が閣議決定され、同じ日の午後の持ち回り閣議で、原子力災害対策本部設置の閣議決定がされるということになっているのです。

 「311」は、日本のエネルギー機序の在り方、そして経済の在り方の画期を象徴する日付になるのかもしれません。

2011/03/17

東北関東大震災において必要とされる復興事業のイメージ

超短期のライフライン関係及び今後の防災対策関係はのぞく

○日本全域から被災3県への広域物流確保策
 国道4号線が被災3県を縦貫しているが、広域輸送を陸上輸送に頼ると、この国道4号線が渋滞することになる。この国道4号線は被災地域内の域内物流の生命線であり、ここを広域物流が「ふさぐ」ことは効率性を著しく低下させる。
 そこで、港湾物流と航空物流を、閑散としている地方空港や地方港湾を活用して、再構築する。例えば、静岡空港は、東名高速道により関東圏関西圏に接続しており、ここを拠点に物資や人材を集積して、稼働している花巻空港に輸送する。この事業については、既存の航空会社というよりも、富士山静岡空港株式会社に対し、国が特例法により出資して、大規模増資をして、それこそJALをリストラされたパイロットや整備士を2年間程度の雇用契約で根こそぎ雇用することで賄うということが検討されえる(機材は、国際航空機のレンタル市場から調達する)。
 港湾については、国内海運の拠点を日本海側、例えば金沢に定め、そこから津軽海峡を経由して、八戸港等に輸送する海路物流網を構築する。この場合も、例えば港湾振興の法人などに出資して、運送事業を地方整備局等から委託する形とし、当該法人が国内海運会社と随意契約で再委託契約を結ぶという方式もあり得る。
 この広域輸送網を確保することで、負傷者や高齢者等を域外移送するための移送網としても活用できる(当然、受入側の病院や介護施設について、特例的な手当、つまり基準未達・各自治体の医療計画病床数の上限を超えることとなっても、医療保険、生活保護の医療給付の対象化、介護保険の対象事業所としての簡易認定等を併せて行う必要があるが)


○域内交通インフラの「分散型」での復活策
 ガソリンタンドという自動車運行インフラが崩壊しているものと思量されるところ、ガソリンスタンドという危険物保管施設を復活させるのではなく、電気自動車による分散型交通網を作り出すべし。
 具体的には、ガス改質装置及び太陽光パネル、風力発電機を大量に域外から沿岸部に集中的に輸送。これに合わせて、軽自動車をベースにする電気自動車を大量に輸送(例えば、ゼロスポーツ社の技術を活用)。
http://www.zerosports.co.jp/index.php


○「有給」ボランティア制度による雇用確保策
 日本全体では、有効求人倍率が低く、今回の震災による更に民間企業の求人は減少するものと思われる。そこで、この4月に就労出来ない状態にある30歳未満の者、あるいは、ニート、引きこもり者については、「有給」にて復興作業に従事する「ボランティア」を募る事業を行う。
 また、これらのボランティア作業に従事した者については、平成24年度以降の国立大学や専門職大学院(特に教員大学院や法科大学院)における入学試験における加点措置などを法制化すべし。
 さらに、ボランティア活動から、介護事業や建設事業等への恒常的事業体への転換への促進を行うため、例えば消費生活協同組合法やNPO法を改正して、コーポラティブ型(雇用者が経営参画することを義務づける法人法制)を策定し、かつ、このようなコーポラティブ型法人と会社法上の会社との間の組織変更制度を整備する(逆もあり)。
 コーポラティブ型法人の法制度を整備するのは、特に、一般法人法の設立手続きが過剰で登記費用や総会開催費用等の面で法人設立を不当に制約しているから。さらに、こういった法人に雇用されている者についての労働保険、健康保険の雇用者負担についての公的負担(時限措置)を検討。


○「感情労働」従事者を手厚く配置した復興住宅確保策
 阪神淡路の際にも問題になったが、復興住宅における身体的、心理的ケアが、高齢者と子供に必要になる。そこで、介護福祉士と保育士の育成を大幅に増員し、今年の後半に本格化するであろう、復興住宅群を整備する場合には、介護システム、保育システムを一体的に整備する。

→これらの措置に必要となる財源は、「復興債」として国債を増発するものとして、特例法でも、国会決議でもよいので、日銀引き受けを行うべき。週明けの日銀の資金供給オペレーションは、久々のヒットであったが、ここでも明らかになったのは、日本の金融システム全体、日本の銀行の機能不全(銀行は、日銀の資金供給を受け入れきることできず、応札が日銀の資金供給目標を下回っている)を表象しており、伝統的な金融政策が機能していないことが明らかになっている。
 よって、マクロ経済政策的観点からも、遊休人材と資源を活用するべく、人為による資金配分が不可欠であり、日銀引き受けによる「復興債」を大量発行するべきである。
 また、付随的効果として、この復興債の大量発行により、円レートが円安になることが予想されるが、これをもって日本の為替安誘導であると国際的に非難されるおそれは想定できないし、仮にそうであっても必要なものは必要なのであり、昨年11月のような懸念なく円安誘導に進めることとなる(これは、原油等の資源価格の動向にもよるが、短期的には日本企業への一服の時間を与えることになる)。

○自立復興に向けた金融確保策
 郵貯マネーを活用した、
 ①住宅再構築、事業再建に向けた者への直接の金融確保(商工中金、政策投資銀行等)
 ②地域金融機関の破綻懸念払拭策及び貸し出し拡張策(不良債権の買い取りと信用保証)
 ③ノンバンクの利用拡大策として、マイクロファイナンス方式に対する貸金業法、出資法の限定解除
 これらの事業、特に①については、国または該当機関自らが財投機関債を発行することでも可能(これを日銀が引き受ける)。他方、②や③の方策を金融機関の株式その他の持分を取得する方式で行う場合には、株式会社たる郵貯銀行が持ち株会社化する方式の方が有効であるものと思われる。

<復興に向けた基本哲学>
 誤解を招く表現であることを認識しつつも、

「前世紀の遺物を引きずったハード、ソフトを復興させるのではなく、21世紀型の協調ネットワーク型社会を復興するためのハード、ソフト両面の整備を目指し、日本社会の今後の「目指すべき姿」が仙台に、石巻に、南相馬に現れ、世界中の人々が移住したいと思うような新しい生活空間を作り出す」

ということを基本哲学、スローガンとすべき。

2009/12/17

マイクロファイナンスの普及・定着のためには?

短期の景気対策において必要とされる貧困対策/失業対策としての資金還流に関し、既存の金融機関(銀行、消費者金融)が有効に機能しないことは確かである。だから、マイクロファイナンスという「魔法の小箱」に対する期待が高まり、その普及・定着が高唱されることも、理由なしとはしない。

 一方、マイクロファイナンスを実装・実施するための法的ビークルは、既に存在しており、オペレーションの蓄積やその工夫は必要としても、マイクロファイナンスの実現に少なくとも法的障碍がある訳ではない。である以上、マイクロファイナンスという仕組みを定着させる上では、もう一度基本に戻って、マイクロファイナンスというサービスの供給者と需要側の条件を改めて考える必要があろう。

 まずひとつは、マイクロファイナンスを実施する機関に労働や資金を提供する者の動機付けの問題である。
 管正広氏の「マイクロファイナンス」では、この点に関し、共感やCSRで説明しようとしているが、些か弱いのではないだろうか。アダム・スミスの「道徳感情論」で展開された議論を否定するものではないし、このような論理立てが、社会思想の変革のための社会運動としての価値はあるとは思うが、その実現を政策的に推し進める方策を考えるという意味での政策論としては、公的権力が人間の頭の中身に直接介入できないし、すべきでないという観点から、社会思想としての議論だけでは意味のあるものとはならないのではなかろうか。
 同書でも触れられている「ソーシャル・インデックス」というアプローチは、企業の価値(価額)評価と社会活動とのリンクを図るというアプローチではあるが、そもそも既存の資本市場インフラという仕組とのリンクである点が、マイクロファイナンスという仕組みと「水と油」ではないかという懸念がある。つまり、既存の資本市場から調達される資金は、マイクロファイナンスというサービスの資本として適合性がないように思われる。

 いずれにせよ利潤動機(貨幣的利潤動機)以外のマイクロファイナンスの事業の継続に対する動機付けの在り方をさらに理論化する必要があるであろう。勿論、これは動機付けを有している篤志家が個々に存在することを否定しているものではなく、マイクロファイナンスという存在が継続し得る前提条件を探求する上で避けられない問題、特に政策的実装を考える上で、動機付けの在り方がその政策的操作の対象の選定を左右すりが故に重要であるというに過ぎないのではあるが。

 もうひとつは、マイクロファイナンスを利用する側の能力の問題、別の言い方をすれば、マイクロファイナンスによって供給される資金の質に適合したマイクロビジネスの在り方、そういったマイクロビジネスの社会への定着ということである。
 生活密着、地域密着の小規模サービスビジネスが適合的であることは直感的・感覚的には理解できるであろう。と同時に、そういったマイクロビジネスは、結局、ビッグビジネスに化けるか、ビッグビジネスによって市場から排除されてしまうので、マイクロな常態で持続することが難しいという課題が、マイクロファイナンスの前に立ちふさがることになる。
 このマイクロビジネスの生き残りといい問題は、「3万円の仕事を10個持とう」という信条と同様に、多層的で柔軟な職務人生を寛容する社会の在り方、特定の組織的保護体からはじき出された人が改めて自律的・自立的に生きる在り方を”再発見する”ことが、現代日本において如何に難しいかという問題と、表裏の関係ではないかと、類推・推測される。
 マイクロビジネスが、マイクロ状態で市場というフィールドで生き残ることができ、そのマイクロな状態のビジネス複数に従事することで、マイクロファイナンスを返済しながら自律して生活していくことができる。つまるところ、それを希望しなければ、ビッグビジネスにおけるマッチョな「ビジネスマン」=古くさい言い方では「勝ち組」になる必要がないという状態を常態にするためには、そのような競争条件や公的需要の発注方式が考慮されるべきなのであろうか?

 そもそも、マイクロファイナンスとは、マイクロファイナンスという事業自体も、マイクロビジネスであることがベターなのではないだろうか。マイクロファイナンスの債権管理は個別性が高く手間がかかるのであるから、自由度のあるフランチャイズはともかく、ビッグビジネスで実施という絵姿には、相当な違和感、異質感がある。また、大銀行と競争関係におかれて、マイクロファイナンス機関が市場から排除されてしまうという事象も自然体では非常に起こりそうな事象だ。
 ということは、マイクロファイナンスの普及・定着のためには、マイクロファイナンス自体を含む、マイクロビジネスを日本で”再発見”するための政策的介入=国家権力の介入の具体的有り様を考えなければならないということなのではなかろうか。

2009/10/23

メディア・イノベーション時代の「陥穽」

 「慶安の触書は出されたか」という、非常におもしろし小冊子がある。

 「慶安の御触書」
 日本史のお勉強のとき、江戸幕府が農民の生活統制=年貢確保のために出した「お節介法令」(いわば江戸時代の軽犯罪法)というイメージがある。
 衝撃的だが、この「慶安の御触書」というものは、実は「幕府法令」として実在したものではなくて、原型が別にあり、それが後世(19世紀第2四半期以降)になって、慶安時代(1649年)に幕府によって全国に発令されたものとして「法令集」などに掲載され、多くの藩で採用されたものだそうだ。そもそも、慶安時代に発布された触書そのものというのは、全く発見されておらず、明治期からその実在性については疑念を抱いていた学者もいたというのだから驚きである。

 問題は、なぜ後世の「情報操作」によって、有りもしない幕府法令の存在が広く信じられるようになったのかということだ。
 本書では、松平定信によって試行された「法令を町方に印刷物で配布」という新しい情報伝達ルートの開拓(情報メディアのイノベーション)したことをその背景要因と上げている。時代背景に「天保の飢饉」などの影響で、農村が荒廃しており、その立て直し方策の一貫で、「慶安の御触書」と称する法令が町方・農村に印刷物として配布された結果、全国規模で(その真偽も疑われずに)普及したという仮説である。

 この仮説の妥当性はともかく、情報が新しいメディアで伝達され始める時、その情報の信憑性というか、情報提供者による操作可能性については、そのメディアに関する市民のリテラシーが追いついていない。よって、信憑性の低い情報や操作されている可能性の高い情報が急激に拡散するという視点は、現代においてもウィキペディアやブロゴスフィア、はてブ等のネット上のCGM的メディアで生じている事象の分析視角として有効だと思う。

 いずれにせよ、この「慶安の触書」問題は、情報メディアにイノベーションが生じた折りに、そのメディア、そしてそのメディアによって拡散した情報を後世に受領する人々が陥る「落とし穴」、陥穽を良く示している。
 情報メディアを巡る問題は、江戸時代でも現代も似たり寄ったりということ。

 もう一点、この小冊子との関連でおもしろいと思うのは、つくづく江戸時代というのは、それ以前との対比で、情報大「公開」時代だったのだという点。
 こんな話がネットで出ている。

学問のこと

慶長八年ごろのこと、林羅山や遠藤宗務、松永貞徳といった人々、がそれそれの研究している「四書新注」「太平記」「徒然草」などの、一般の人々への公開講義を行う事を企画した。
人々の間に、学問を広める事を目的とした者である。
ところがこれに、儒学を家学とする清原家などの、京の伝統的な学派が異議を唱えた。
そして彼らはこれを禁止させるため、家康の元に、今川氏真を派遣した。

氏真は言う、
「学問とは、代々それを受け継いだ師が、その伝統の秘伝を含め弟子に教え伝えることで始めて成就するものです。
それを公開し誰にでも学べるようにする、などと言う事は、学問そのものを破壊してしまいます。」

家康はこう答えた
「師につかなければ、学べないようなものは、学問ではない。芸だ。学問とは、何から学ぼうが、学ぶ者の努力次第で、天下万民、誰でも会得できるものでなければならない。」

こうして、公開講座は無事開かれた。さらにこの講義内容は出版され、日本全国に知的な興奮を巻き起こした。
一部の人々にのみ伝わっていた「徒然草」が、日本人に「再発見」されたのも、この時である。
学問の世界が、中世から近世的なものへと切り替わった瞬間とも言われる、有名なお話。

 この話自体は、まあ俗説なんだろうが、中世(平安末期から室町時代にかけて)は、情報の多くは、京都の公家及び寺社内に保存されているものであり、それぞれの「家」に伝承する日記や寺社内の記録として門外不出のものであった。それを最も独占していたのが、天皇家だというのが、天皇という仕組みが戦国時代を生き延びたとする学説もある(本郷「天皇はなぜ生き残ったか」 )。

 また、法律なんてものも、「ポケット六法」なんて手軽に法令を閲覧するものはなかった(いまでは、ネットで検索かもしれないが)ので、訴状沙汰の時には、自分の権利主張を根拠づける法律を自分で裁きの場で主張しなければならなかったらしい。だから、法律の存在の真偽が争われるという現代の裁判では信じられないことが、訴訟古文書として残っている(勿論、国際裁判の場合には、現代でもそういうことが起きるが・・)。
 中世では、情報が囲い込まれ、それが権威と権力の源泉であった訳だし、そもそも一般人は、そういう「情報」があるということ自体を知らなかったし、仮に開示される場合にも、それは、特別な時に特別に開示されるのが当然という時代だったのだろう。

 それが、大きく転換したのが、江戸時代。さっきの逸話は、その象徴。「法令を町方に印刷物で配布」という情報伝達のイノベーションも、イノベーションの常で、今では当たり前のことだが、当時としては画期的だったのだろう。そういう情報大「公開」の時代であったから、「慶安の触書」も一気に定着したのだろう。
 「慶安の触書」の存在というのは、メディアの転換点における、珍奇な事象として、とても興味深いものだ。
  

2009/10/11

財政支出におけるターゲット戦術の破綻

<野田副財務相>厚労省などの予算増、例外は認めず 10月8日  毎日新聞

 野田佳彦副財務相は8日の会見で、各省庁に15日の提出を求めている来年度予算の要求について、「(09年度)当初予算より減額で要求してほしいとお願いしている」と述べ、要求総額は09年度当初予算の一般歳出51.7兆円を下回る水準に抑えたい意向を示した。民主党が政権公約に盛り込んだ「子ども手当」などで約4兆円の予算増が見込まれる厚生労働省についても、例外なく増額を認めない考えを表明した。

経費・補助金一律2割カット、厚労相が指示 10月8日 読売新聞

 長妻厚生労働相は、来年度予算編成に関し、省予算を大幅節減する方針を固め、9項目の具体策を省内に指示した。
 同省所管最大の公共事業である水道施設整備事業を原則2割削減するほか、国家公務員OBが5代以上にわたって理事長などの要職にある法人への補助金を原則禁止するなど、「聖域を設けず」、事細かな節減措置を示した。
 厚労相の指示は6日付の文書で通知され、「既存予算の徹底的な見直し」を掲げた。個別の経費削減対象として、〈1〉上水道整備などの公共事業〈2〉事業委託・物品調達〈3〉業務用に使うコンピューターシステムなどの開発費、利用費やリース料〈4〉国家公務員OBが在籍する公益法人、認可法人などへの補助金――について、一律に2割削減するとした。
 公益法人などへの厳しい対応の背景には、「天下りのための法人」との批判が根強いとの判断がある。また、「基本的姿勢」として、給付費や義務的経費についても、事務執行体制の効率化で節減努力を行うよう求めている。


 母子加算の復活や子ども手当の創設など移転支出の拡充を図る一方で、全体の予算増額を抑えるために一律に官僚が直接支出する「経費」の一律2割カットを図るという構造が生まれてきている。一律カット部分というのは、行政機構が細々と行ってきた補助事業や直接の購買行為を削減するということだ。
 
 行政官僚が「良かれ」と思って行っている細々とした事業がことごとく失敗し、それどころか、無意味な「官僚」間接雇用おのための経費へと堕落している以上、当然のことだ。
 天下り問題と切り離してみても、いわゆる産業政策や科学技術政策のように、役所又はその「委任」を受けた者が、助成対象や支出対象を自由に選定することができるターゲット(絞り込み)型の施策はことごとく成果を出していないという現実からすれば、この政策手法(政策戦術)の元になされる財政支出の大幅な転換は早晩進められるべきであり、いや遅すぎたということもできよう。

 結局、役所は利益集団からの「あれもこれも」という政治的圧力に抗すべくもなく、あれもこれもと細々とした予算措置をターゲット戦術に基づいて、ひねり出してきた。その最も象徴的で愚劣なものが「国立マンガ喫茶」であるメディア芸術センター構想であったのだろう。たかが100億をそれも箱物に支出したところで、何も変わりはしない。
 一方、移転支出は、本来、ルールが確定すれば、裁量的な対象選定は許されない性格のものであり、役所の自由度は低い(それが、立憲主義にかなうのであるが)。また、社会保険庁の例に見られるように、移転支出を丁寧かつ正確に行うことは、結構プレッシャーとコストを要するものである。だから、移転支出は、役所に好まれないのかもしれない。

 しかし、これからは、役所(特に、国家行政機構)は、移転支出のような所得再分配と、社会制度の立て直しのためのルール整備に意を注ぐべきなのであり、金銭で対象の行動を変化させるべき裁量的なターゲット戦術からは、全面的な撤退を模索すべきではなかろうか。

 見直され再整備されるべきルールは、「規制改革」という文脈、コンテキストに限らず様々存在する、雇用ルール、組織ルール、契約ルール等々を、人が個人として自律的に生きることができる社会、「疎外ばかりを生み出す組織」に縛られずに経済活動に安心して従事できる社会、堅い組織の結合体ではなくて社会になるために、「身分保障」とヒエラルキーという堅固な組織に拘束された官僚組織がなさなければならない制度再構築の量は多い。

 いずれにせよ、官僚の裁量的経費支出の排除という思想が見えてくる共に、それが現実を動かし始めているということ。勿論、予算という法形式によるこれまでの行政統制、役所統制がいかに形骸化していたかを象徴している訳で、その問題点が全面的に解消されるには時間と胆力を要するであろうし、一過性の査定プロセスで理想状態が生じる訳もないし、時間共に劣化も生じる。それゆえ、ターゲット戦術型=役所裁量的事業を洗い出して一律にカットするという姿勢での予算要求自体の精査というプロセスは常に必要。
 とりあえず、この新政権の元では、最初ということでもあるから、削減率を大臣が競う位で当面は調度良いのではなかろうか。

2009/10/10

家賃バウチャー制度という卓見

 学習院大学の鈴木教授の卓見が披瀝されているレジュメを発見。

2. 住宅弱者への居住支援対策は、家賃補助・ケア補助への一本化が優れた施策

(2)家賃補助(バウチャー)への政策転換
・こうした問題は、欧米諸国が行なっている利用者への家賃補助政策に切り替えることでほぼ対処可能な問題である。
・その際、フランスが行なっているように、家賃補助を受けることができる住宅に一定の質基準を課すことが望ましい。
→質のコントロール。自治体の住宅や建設部門が対象となる住宅・施設の質を審査し、一定の質以上のものにしか家賃補助を認めない。
・現状の限定された対象者にしか支給されない住宅扶助を、ドイツのように生活保護制度から切り離し、家賃補助政策の中に組入れることも一案である。ドイツでは、生活保護よりも緩い所得基準を設定し、それを満たせば必ず家賃補助が受けられるという「資格制度」を採用。
→対象を生活保護受給者以上に広げるハウジングファースト施策。
・また、アメリカで採用されているように、低所得者が家賃を別の目的の支出に使わないために、使途を限定する「バウチャー制度」の導入も望ましいと考えられる。
  →不正や浪費の防止。
・その他のメリットとして、地域偏在への対処(ハコモノと一体ではない直接補助なので、どんな地方でも支援可能)、公営住宅の利用促進(家賃補助により高い家賃を取ることができるため、自治体も利用に積極的になる)、質の確保された民間賃貸住宅の新規供給増(家賃補助により、採算性が増すために供給増。また、家賃補助により家賃不払いのリスクが低くなることも重要。家賃不払いの保障を公的に付けることも一案)
・一方で、居住支援、宿泊所等のケアコスト、アフターフォローについては、別途、必要経費+αの補助金を創設すべきである。アフターフォローについては、必要経費をはるかに超える公費の節約が可能であるとの研究(資料)。宿泊所のケアコストについては、大阪市立大学都市研究プラザの稲田七海によるタイムスタディーによる萌芽的研究。居住支援についても、同様の手法が考えられる。
・東京都の地域生活移行支援事業を積極評価すべき。過渡期には住宅扶助単給付も推進。
・他の住宅弱者(高齢者、障害者)も家賃補助に切り替え、統合化すべき。民主党的。


 ここで、既存のスットク拡充型施策が現実的な問題解決機能を喪失していること、つまり鈴木教授の捉え方では、

「建設補助の問題→民間賃貸住宅への居住支援施策としては、圧倒的に「建設補助」が中心。①「民間賃貸住宅建設融資」、②「特定優良賃貸住宅等供給促進制度(特優賃)」、③「高齢者向け優良賃貸住宅制度(高優賃)」の3つの制度とも、直接、必要とする人に行き渡る部分が少ない。」

とされている問題意識は共有しているが、その問題点の解消策として発想した解決指針は、いまだ中途半端であったようだ。

 鈴木教授の提示する「家賃補助バウチャー」というのは卓見であると思う。
 勿論、この仕組みが直接給付型(古い言葉で言えば、措置制度)に比べてコストが引くからということではなない。提供される「サービス」の質・クオリティーを適切にコントロールしようと思えば、バウチャー対象の監視は不可欠であり、要はクオリティー・コントロールにはコストはかかる。
 バウチャー制度が、(政治思想的に)優れている点は、当事者(提供者と利用者)の「自己決定」の側面が広がるからである。

 中央・地方を問わず行政組織、要すれば役所の支援対象を選別する能力に対する不信が蔓延している。これは、一時的な例外というよりも、このブログのタイトルである「動員型国家」が終焉を迎えつつある中で必然なのだと思う。
 住宅政策についても同じであり、そもそも当事者の選好に大した知見もあるはずもないお役人、それもその地位にあることにそれほどの正統性がある訳ではもなく、人数も限られているお役人が、机の上で練り上げた事業対象が、千差万別のニーズをくみ上げることが可能な訳がない。
 資源制約のある中で、経済資源を一定の方向に動員して経済成長しようという場合の「一定の方向」について、他者の成功体験に照らしたコンセンサスがある時代はともかく、そのような里程標、羅針盤がなくて、自ら「新しい成功体験」を作らなければならない時代には、官僚制によってスクリーニングされる事業対象選定は、その適合性、適正性を保障しない。
 その弊害が噴出しているのが現代ということであろう。

 話が大きくなったが、いずれにせよ、役所が決めるターゲット政策戦術(政策手法)が破綻している以上、鈴木教授が展開する「家賃補助バウチャー」という政策戦術が、今後の住宅政策の根本に据えられることが望まれよう。
(鈴木先生におかれましては、高いところからの物言いをいたしまして、お詫び申し上げます)

2009/10/08

「門番責任」という理屈

痴漢は逮捕する必要なし

 だから痴漢の責任は、その状況を作り出している鉄道会社にとってもらうしかないと思うんです。
 こんな仕組みはどうでしょうか?
 痴漢にあった女性は、鉄道会社に申しでる。鉄道会社は「痴漢がなかった」ことを証明できない限り、被害者に対して補償する義務を負います。被害の程度に応じて、数十~数百万円払うというのでどうでしょうか。金で解決するのか、と言われそうですが、金でももらわなきゃ被害者もやってられないでしょう。無理に犯人探しをすれば、今回の女子高生みたいに、逆に加害者になってしまいます。
 痴漢被害者への補償金の額が馬鹿にならなくなり、鉄道会社も痴漢をできない車内環境を本気で実現しようと努力し始める。
 こうでもしなきゃ、鉄道会社が本気で対策をとってくれるとは思えないんですよね。

 ここで展開されているのは、鉄道会社に「痴漢被害のコスト負担をさせて、痴漢防止の実のある実効を行わしめよ」という提案。
 この手の問題は、実は現代市民社会に共通する問題である。
 つまり、現代市民が活動・生活する場・空間を設営して、利益を上げている者は、その空間・場でその空間の利用者に損害を与える他の利用者の行動をどこまでコントロール責任を負うべきか、負わせるべきかという問題。

 一般化すれば「ゲートキーパーの責任(門番責任)」とでも言えるだろうか。
 これは、相当普遍的に発生している問題でありながら、近代私法体系、さらには、近代立憲主義(人権思想)が抱える問題を提起している。
 というのも、ここで提案されている「痴漢事案が生じる現場である鉄道内について、痴漢が生じないような対策を講じる責任を鉄道会社に負わせ、その不備により、被害者、鉄道会社以外の第3者である利用者の痴漢行為による損害が発生する場合には、その損害を賠償する責任を負わせる」という仕組みについては、近代私法の

・過失責任主義(自己責任原則と過失責任原則)

に抵触するからだ。

 例えば、ネットオークションやネット通販市場において、そこでの出品店や出品者の詐欺行為などにより、そのシステムの利用者が損害を受けた場合に、その場の設営者はどのような責任を負うかという形や、ネットの掲示板やブログなど不特定多数がアクセス可能なネット上での誹謗中傷、著作権侵害などについて、コンテンツ自体を提供している訳ではない、システム・プロバイダーがどこまで責任を負うのかという問題と、実は構造は全く同じ。
 このネット上での問題については最終解決がなされている訳ではないが、事態は改善の方向に向かっている。
 問題が顕在化した紛争当初は、システム・プロバイダー諸子も、この「過失責任主義」を盾に、自分(社)の行為ではない、自分(社)に過失はないとして責任を否定していた。勿論、現在も全面的に責任を認めてはいないだろうが、実際には、個々の利用者との規約において、コンテンツの削除甘受を義務づけたり、損害保険による代金返還などを措置することで、被害の拡大の予防・損害の補填の面で一定の責任を負担するようになっている。
 このような、一定の作為を行うことが、法的にも商業倫理的にも正当化されることの背景になる論理が、使用者責任を根拠づける「報償責任論」(伝統的民法解釈学の論理)、さらに「最安価損害回避者理論」(ロー&エコノミクスから導入される比較的新しい民法解釈思想)。

○報償責任

 使用者の責任は他人(被用者)の不法行為責任について代位責任であるとの位置づけが提唱され、その根拠として報償責任(利益の存するところ損失も帰する)・危険責任(危険を支配する者が責任も負う)が主張された。報償責任や危険責任はもともと無過失責任を基礎づける根拠であるから、それが使用者責任の根拠となると、過失がなかったという免責は容易に認めるべきではないことになる。このような制度理解は、その後の企業活動の拡大とともに生じた社会的要請にも合致したため、代位責任説が支配的となった。
 内田「民法Ⅱ(第2版)」p455

○最安価損害回避者
 

仮に交渉費用が高くて交渉できないとしよう(それが現実により近い仮定である)。そのような場合は、損害を最もやすく回避できる者(最安価損害回避者という)に賠償責任を課すように不法行為法を定めるべきだ、とカラブレイジはいう。
 しかし、もし誰が最安価損害回避者か分からない場合には、最も安く最安価損害回避者を捜し出してこれと交渉できる者(最安価交渉者という)に賠償責任を課せという。
 このような理論を駆使して、カラブレイジは、交通事故に関する無過失責任賠償制度を正当化する議論を展開した。
 内田「民法Ⅱ(第2版)」p308


 場や空間を設営し、その利用に料金を課金している事業者は、ゲートキーパーとして報償責任を一定の範囲で負うであろう事は、感情論的に受入れ可能であり、相当程度一般化が可能であろう。
 また、利用者の出入りに課金している以上、利用者の選別に関しては、当該場の利用者よりも安価に実施できるし、少なくとも単なる利用者よりも「最安価交渉者」であろうという点についても、同意が得られるかと思う。
 もちろん、被害発生の防止方策が、利用者の選別及び交渉による行為抑制(利用の禁止を含む。)だけだとすると、場の設営者だけに責任を負わせてもという感じがしないでもない。ここで、参照すべき概念として出てくるのが、ハーバード大学の憲法学者レッシグがCODE以下の著作で展開したアーキテクチャという概念だ。

アーキテクチャ(Wikipedia)

 人間の行為を制約したりある方向へ誘導したりするようなウェブサイトやウェブコミュニティの構造、あるいは実際の社会の構造もアーキテクチャと呼ぶ。ローレンス・レッシグは、著書『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』において、人間の行動を制約するものとして、法律、規範、市場、アーキテクチャの4つを挙げた。

 取締りと刑罰によって行動を制約する(法律)、道徳を社会の全員に教え込んで行動を制約する(規範)、課税や補助金などで価格を上下させて行動を誘導する(市場)といった手法のほかに人間の行動を制約する手法として、社会の設計を変えることで社会環境の物理的・生物的・社会的条件を操作し人間の行動を誘導するという、「アーキテクチャによる制約」が考えられる。社会の仕組みを変え、ある選択肢を選びやすくする・ある行動を採ることが不快になるようにするといった環境に変えることにより、社会の成員が自発的に一定の行動を選ぶように誘導し、取り締まりを行ったり子供たちに規範を教育するよりも安いコストで社会を管理することができる。

 掻い摘んで言えば、場・空間の利用者の行動は、その場・空間の設計・実装の仕方によりコントロールが可能であり、それが実質的な権力あるいは法規範の役割を果たしているという理論である。特に、技術的、経済条件的、規制的に他の代替できる場や手段が存在しない場合、その「唯一の」空間・場の有り様=アーキテクチャは決定的な制約として機能することになる。
 この「アーキテクチャ」という概念は、元々はコンピュータ・システムの作り方の話であり、具体的には、例えば掲示板の書き込みにNGワード設定がされており、NGワードを含む書き込みを弾くというようなものがイメージされる。
 もちろん、元々が設計や建築学の用語であったのであり、リアルの世界にも適用できる概念だ。今回の満員電車における痴漢問題ということであれば、現在すでの行われている、混雑時間の女性専用車という利用ルールも一種の原始的なアーキテクチャだ。ただし、乗車サービスという無形のものの「設計」ということであるが。現在、改札のICチップ化が急激に浸透しているので、様々な「選別」が可能だろう(まさにゲートキーパー)し、嫌な話ではあるが、監視カメラの常設化みたいことも、アーキテクチャとして実装可能だろう。
 
 「報償責任」「最安価損害回避者理論」「アーキテクチャ」といった概念道具を使うと、鉄道会社が満員電車の中の痴漢被害について賠償責任を負うという仕組み、責任関係の有り様はそれほど荒唐無稽なものではない。勿論、政治的に実現することは大変だろうし、また虚偽請求、つまり痴漢されていないのに賠償請求がなされる可能性を最小化する要件事実の構成や痴漢認定実務の構想が求められはするが。

 こういう「報償責任」「最安価存在回避者理論」などが政治的軋轢を乗り越えて社会に実装された制度の一つが、先のネットオークションの場合の損害補償制度なんかじゃないかと思われ、嫌なことだけど、全般的な監視社会化の進展とともに、ゲートキーパー責任論は強化はされても、弱まることはないんじゃないかと思う。

2009/10/04

こういう条例改正は違憲の可能性があります

リンク: 10分1000円散髪店がピンチ.

 理容師と美容師の混在問題といい、格安理髪店に対する理容組合の「嫌がらせ」はつきませんね。

 薬事法省令による薬のネット通販規制に対する訴訟と同様に、この条例についても、行政訴訟が提起されると良いと思います。

 この条例は、公衆衛生確保のためだそうですが、公衆衛生目的の規制、つまり警察取り締まり目的の規制に対する違憲審査基準は厳しいものです。
 有名な薬事法距離制限規制違憲事件の違憲審査基準に照らせば、この条例は、違憲判断が下される可能性が非常に高いと思います。

 本当にばかばかしいにもほどがあると思います。

2009/01/13

IT技術振興策と環境省エネ技術振興策

 昨今,環境省エネの技術を日本の潜在力と見立てて,この技術を梃子に経済成長しようという論調がある。
 確かに,環境省エネ技術の進歩が世界的に望まれていること,それ自体は否定されまい。
 しかし,それと日本政府の環境省エネ技術振興策が成功して,日本企業が環境省エネ技術の実装ビジネスで世界を牽引できるかどうかは,別問題ではないか。

当時のOS市場での成功要因がカーネルやファイルシステムの技術力だったとしたら、到底IBMに付け入る隙はなかった。マイクロソフトよりもOS技術としてはIBMやDECが、UI技術としてはXeroxやAppleが遥かに先行していたけれども、ソフトウェア工学に拘り過ぎず、当時の限られたメモリでそこそこ動くものを、技芸的につくったところが他社と違っていた。 現在在のパソコン市場だけをみて、日本にも基盤ソフトをつくれる技術力があるはずだなどと力んでいる人々は、この辺の歴史的経緯を全く総括できていない。 ~日本のIT振興策はなぜ失敗するか~ 「雑種路線でいこう」より

 この楠さんのブログのエントリー自体は,2006年のものなのだけれども,上に引用した部分の記述は,その中の個々の要素技術を,「太陽光発電パネル」とか「水質浄化繊維」と読み替え,IBMなどを「日本」と読み替えると,10年後の状況になっていたりしないだろうか。
 10年後には,「日本の環境省エネ振興策はなぜ失敗するのか」という論点が提起されないようにするには,どうすればよいのだろうか。
 巷では,マスキー法の例を単純に踏襲して,電気自動車の導入などの環境省エネ規範を法的に義務化すればよいといった乱暴な議論もあるが,そんなことをしても,結局,海外製品・システムに日本市場も席巻されるだけになるかもしれない。
 そんな単純なことではなくて,この楠さんのエントリーにあるように

先行企業の背中をみて真似る戦略では展望は開けず、独自の技術革新や事業モデル、価格戦略などでルールを書き換える競争を促すような施策
が必要なのかもしれない。  ただし,その施策は決して,補助金事業や技術開発委託事業のような,既存大企業の雇用維持に使われる支出ではないことだけは確かだと思う。
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